月が見ていた。
月の光を阻むことは誰にもできない。
遮っても、覆っても、光は指先をすり抜けていく。
どれほど暗くても自分の姿が見える限りは光は射し込んでいるのだ。
ならば夜を盗み出そう。
そうすれば、月に見られることはないだろう。
夜を盗む男
そのとき響きのいい音が3度高鳴り空気を震わせた。
ふと手を休め耳を澄ます。だが、今聞こえてくるのは木々のざわめきと、水の話し声と、時紡ぐ音。それ以外は全くの音一つ無い静けさ。でも、さっきの音は空耳ではないだろう。
立ち上がり、執務室から廊下へ出た。空気の温度が違い、少しばかり寒さに震えた。冬の足音がここまできているのか。そう思い、心持ち身をこわばらせた。そのうち、アレクサンドリアの大地も白の来訪者に覆われるだろう。白銀の世界は何汚れもなく綺麗なものだ。雪越しに見る月の光はフィルターがかかったようにぼやけて、見る者に深い感動を与える。その幻想的な光景を思い描き胸を高鳴らせもしたが、寒さは病の引きがねともなる。まだ、完全に復興しきってはいないアレクサンドリアの地に流行風邪などが舞い降りれば多くの死者がでることは嫌でも想像がつく。医療関係に国庫資金を当てて予防しなければと思い描き、自分は彼らの命を背負っているのだという重みをまた一度感じさせた。
そこには青色の月で四角の窓枠とポプラの樹が影となって床に映っていた。そして、その一枚の絵の中に刈り取られたヒトガタ。まるでキリ絵のようにくっきりとその跡を残す。そして、普通の人間ならばあるはずのない、猫の様なしっぽがゆらゆらと揺れていた。まるで甘えるかのようにくるくると輪を描く尾に、少しばかり笑みがこぼれる。
犯人は、分かっている。けれど、消え入る様な声でたずねた。
「…だれ?」
すると、影は動き出した。軽い猫のような身のこなしで、音も立てずに窓枠へ飛び乗った。逆光で表情まではよく分からないが、雰囲気からして彼は笑っているのだろう。そして、私に額を合わせるように、冷たい窓に額を重ねていた。額のあたった窓ガラスが彼のぬくもりで少し曇った。
耳慣れた声が聞こえた。冷えきった空気を震わせて。
「…窓から失礼します、お姫様。扉、開けてくれるかな」
静まり返った夜の雰囲気の中に、不釣合いなぐらい子供っぽい笑顔であった。けれど、今のところそれが問題ではない。
「何時だと思っているのかしら」
日付も変わりさった頃、こんな真夜中に普通尋ねてくるだろうか。軽く腕を組み、多少の不満を交えた瞳で彼を見ると、ガラス越しに苦笑した彼の姿があった。
「もう日付も変わっているのよ。こんな時刻に入れてあげると思うかしら?」
「……ならば私は月の光」
ふと、今までとは違った声色で彼は言葉を紡いだ。彼の育ちを思い浮かばせるように、どこかの大劇場で台詞を唇にのせるように、ある戯曲の一節を口ずさむ出した。
「例え霧の大陸の大半を収められる女王であったとしても、窓辺からさし込む月光を阻む事は出来ない」
本来ならば、その言葉を皮切りに相手役が窓を開け放ち手を伸ばす物語がある。しかし、台詞を変えてたずねてみた。
「…では星ひとつ、月のカケラひとつ、仰ぎ見る事の出来ない闇の夜だとしたら」
「闇の夜だとしても、あなたへ届くように心から願い続けましょう。想いは万物に力を与える。分厚い雲を払いのけ、貴方の窓辺へ照らし出しましょう」
カタリ、という重たい錠の落ちる音ともに、扉が揺れた。彼ならば、いや、彼でないとできない芸当であった。
彼の蒼い瞳に驚きの色を隠せない私が映っている。私の目にも彼が映っているのだろうか。手が伸ばされてひと束の髪が彼の指先をこぼれていった。外の木の葉が風に撫でられ散った。それと同時に彼がするりと入ってきた。
あまりにしなやかな身のこなしは、まるで一陣の風を思わせた。明るい金色の光を帯びた。
そして、自然な動作で彼に腕に包み込まれていた。その体温は彼が外にいた時間と比例しているのだろう。ひんやりと冷えきっていた。雪を抱きしめているようだ。
ただいま、と小さな声で囁かれたお決まりの言葉。何度となく交わされてきた。お帰りなさい、と冷えきった彼に少しでも体温をわけてあげるように、背へ手を伸ばした。
きっとものには相性があるのだ。
なかなか寝付くことができず、寝返りを打ちながらそう思った。
今、自分は豪華絢爛なふわふわとしたソファーの上に転がっている。色は部屋に合わせて乳白色で、職人芸である刺繍の繊細さが光る。羽毛でも詰めてあるかのように柔らかで寝心地はとてもよいはずだ。ソファーとはいえ、こんなものの上に転がっていれば誰だって眠くなる、とは思ったのだが自分はなかなか寝付けなかった。アジトにおいてある長年愛用した硬いベットの方が遥に眠りを誘うように思われる。
彼女は言ったことがある。ソファーではきっと眠れないから部屋を用意してもらおうかと。しかし、自分は断った。少しでも長い時間を一緒に過ごしたいからこのソファーで十分だと。ちなみに、そんなに言うなら隣で寝かせて欲しいと付け加えたが、添い寝されないと眠れないほどお子様ではないと返された。それにしても、転がれるだけ十分だとは思っていたが、意外に眠りにくいものだ。
もう一度、寝返りを打った。目線に入ったのは、砂のカーテンに包まれたベットであり、そこに小さく寝息を立てながら眠るお姫様の姿であった。
軽く反動をつけて起き上がり、薄布を指先で持ち上げた。するりと中へ入ると、大人2,3人が楽に転がれそうな大きな寝台の上に、まだ少女時代の面影を色濃く残した彼女がいた。まるで胎児のように軽く体を丸めた状態で寝入っている。規則正しく体が上下しており、彼女の熟睡度具合を表していた。
彼女を起こさないように静かにベットの縁に腰かける。眠り姫は微動だもせず夢の世界をさまよい続けている。黒く長い睫が軽く震えながら閉じられて、咲きはじめの花のような淡い色合いの唇からは吐息がこぼれる。無邪気で無防備な寝顔をぼんやりと見つめながら、しばらく時間を過ごした。
寝顔は誰しもの性格を現しているように思う。眠っているときばかりは誰もが自分を飾り立てることができない。だからこそ、その人の人となりや本当の表情が浮き彫りになっているように思う。そして、そんな本当の彼女を見ることが自分にしか叶わないと思うと、少なくはない独占欲が満たされる気がした。彼女が軽く寝返りを打ち、絹糸のようにさらりと髪が彼女の顔にこぼれた。彼女の顔がよく見えるように髪に手をかけたとき、ふと、窓の方に目を引かれた。
自分以外にもいるのだ、と。
彼女の寝顔を見ることができるものを思い出した。それは、ガラス越しにいつも浮かび上がる存在。テラとガイヤの象徴である赤と青の双子月だった。
テラスに足を向け、扉を小さく開けた。冬のにおいが包み込んできた。ひんやりと冷たく吐く息が白かった。どうも、自分は猫に通じているのか、寒いのが苦手だ。だけど、この冬の凛とした空気は好きだった。冬の空気は他の季節に比べ物のないほど美味しい。そして、その空気を味わうため大きく深呼吸した。体の中から冷える感覚もしたが、このさいは無視しておこう。
手すりに寄りかかるとしばらく目を瞑りながら過ごした。澄み切った空気の中で、いつにも増して鮮やかに明るく双子月が輝いていた。
しばらくそうしていたが、気配を感じて目を開けた。起き上がった彼女がこちらへ歩み寄ってきていた。テラスへ出てきた後、ドアを閉め忘れていたことに今更ながら気がついた。彼女の寝台の薄絹が冬風にあおられて軽くはためていていた。
ごめん、起こしたよな。そう彼女に謝ると、まだ少し眠気を引きずった彼女が軽く頭をふった。激務疲れで気だるい彼女を起こしてしまった小さな罪悪感、眠気を押してわざわざ歩み寄ってくれる彼女の健気さなんだか嬉しさが交じり合った。
彼女は手すりに寄りかかる自分を見て尋ねた。隣にいてもいいか、と。もちろん断るはずがない。どうぞ、と何かの戯曲で主人公がしていたように、彼女を隣に招きいれた。
彼女がてすりに手を置いたとき、指先が触れ合った。すると、彼女はその手をずらした。そういえば、前も似たようなことがあったなと思いながら、ずらされた彼女の手を追いかけるように掴んだ。
眠りがまだ覚めていないような、あたたかな手だった。
掴んだ手先をずらして指を組ませた。それは、教会などでお祈りをするときに両手を組むような感じで、その手が片方は自分で片方は彼女だったということ。握り締めると、これが夢ではないと気づかされる。幼いとは思いながらも、自分はこうしないといられない。触れ合っていないそれが実体のないもののように思えるのだ。
今ですら、あのみんなで冒険をしたころのことを鮮明に思い出すことができる。だけど、ときおり自分はそれは夢ではないのだろうかと疑うことがあった。あまりにも現実離れしすぎている、と。
人は大切なものが見つかると臆病になるのだと思う。
誰を想えば想うほど終わりの日が足音を立てて近づいてくる気がする。今を幸せだと思うからこそ、全部を失えばどうなるのかという怖さがあるのだ。
だけど、こうやって手を握り締めているだけで、その考えはただの杞憂だと告げられる。そばにいるのだと安心できる。我ながら幼すぎるとも思うのだけれど、これが一番存在を感じられる方法。
再びしばらくの間ぼんやりと何をするでもなく手を握り締めて寄り添っていた。冬の夜風は多少肌に冷たいが、握り締めた彼女のか細い指先からはこぼれるような優しさとあたたかさが伝わってくる。
ふと彼女の頭が小さく傾いて、肩に軽い重みがかかる。どうやら、眠りの世界にもう一歩近づいたようだった。全くどこにいても寝られるというのは才能とでも言うべきか。多少は警戒というものを持つべきなのではと思い小さく苦笑した。このまま完全に寝入られてテラスから落ちられでもしたら困る。そう思って、肩と足に手を回して文字通り彼女をお姫様抱っこをしてみた。それでも目が覚めない彼女には本当に感服する。
そして首だけを軽くかたげて、今一度背に広がる今宵の双子月を見上げた。赤と青の相反する色合いの共演。凛とした響きを冬の空に響かせている。奪う星と奪われる星の追いかけあいを現すかのように寂しさと哀愁が鳴る。
その光を見上げてから、再び前を見る。射し込む月光を受けながら、部屋へ入り扉を閉めた。巧みな模様が施された絹のカーテンをかけた。しかし、その合間を潜り抜けて光が射し込む。どれほど暗くても自分の姿が見える限りは光は射し込んでいるのだ。 やっぱりさ、そう閉じられた瞳に囁いてから言葉を続けた。
きっとどこまでもオレは子供なんだろうな、だからワガママなんだ。
どれだけ防いだとしても、月の光は射し込むだろう。
それならば、自分は夜を盗みだそう。
彼は夜を盗む男。
あとがき
ええと、復活作です。
前半が受験戦争のまっさい中(2月後半・苦笑)に現実逃避のため書いたもの。
後半はの〜んびりま〜ったり高校生活の中で書いたもの。
あまり変化が無いけどそれなりに上達しているといいなぁ。
とりあえず、後半は思いっきり好きなように書きました。
会話文も地文におさめるほうが好きなので、えぇ。
でも、読みにくかったでしょうか?
前半は記念に残しておくとしても、後半をそのうち加筆するかもしれません。
ぶ、物理的に無理だろうとか言う突っ込んだことは言わないで下さい。
最後辺り御代にあわせるためにいろいろ必死だったんです。
夜が盗めるぐらいなら月も盗めるだろうとか思ったけど、け、けど... (2004.06.01執筆)