黒川栄勝  鍛金  春郊遊牧の図 46歳頃制作?  


打物工 1854〜1917 明治29年3月時 神田区五軒町廿番地 在住
  小泉勝親 象嵌    国内コレクター所蔵品  制作当初の桐箱付 小泉、黒川、連名にて花押

                                              純銀 大花盛鉢

                              鍛金。象嵌    径 50.0 センチ  × 高さ 65.0   
                         
                     明治33年「1900」50歳前後 頃の作品と思われる 第3回内国勧業博覧会に小泉勝親 銀製観音彫像置物 出品受賞

                                  富山県水墨美術館。    .富山市佐藤記念美術館 寄託品

                      アメリカ スミソニア 博物館にて 銀鍛金製の展示品を拝見し これだけ大きい作品は皆無であった。

                       日本の明治期作品にとっても大きさや 色絵象嵌の技術の冴えやはり 群を抜く名品である

                        アメリカ合衆国に於いて この馬図は好まれる、西部開拓時代より、馬を連想する魅力がある 

                2006.9〜12 まで宮内庁 三の丸美術館において開催されております作品の中に 香川勝廣 鳳凰高彫花盛器 1対 明治38年

                寸法 D 53.5 H 61.5のおおよそ下記 黒川栄勝制作 春郊遊牧の図 純銀大花盛鉢・と同寸作品が展示されています。                   


                           
                                         春郊遊牧の図 純銀大花盛

春郊遊牧の図 純銀大花盛鉢・

東京高名金工番付表 明治19年において小泉勝親「茨城郡水戸出身 後 東京住」は

彫金 象嵌  .小泉勝親  前頭 5枚目。 海野勝aの「水戸象嵌 萩谷勝平の6門人中3番目」弟弟子 

《 「海野勝a  1844〜1915 天保15〜大正4 、72歳没 「明治43年 1910年時 67歳」 

小泉勝親 別名 小泉金次郎、弥八.「号 瓢庵」  「常陸国水戸市大字上市上金町 住」 は

《萩谷勝平「常陸国水戸」「 [文化元年 1804年〜明治19年 1886年 83歳没] 6人の門人中5番目」》

萩野勝保 1832〜1880 勝平の次男にて勝平 隠居 後 彫金家 萩野を継ぐ

 1番目弟子 滑川貞勝。2、海野勝盛。3、海野勝a。4、鈴木「萩谷へ養子」伝兵衛。5、小泉勝親。6、川上勝俊
 
日本金工協会詳細 。  明治33年「1900」9月 日本金工協会設立 会頭 渡辺洪基男

明治43年12月末 [1910] 会頭 子爵 金子堅太郎[明治33年第4次 伊藤博文内閣 司法大臣]。 副会頭 正木直彦

「日本金工協会長 小泉勝親」60歳頃 、同彫金部長 川上勝俊、 「会員数625名」「東京美術学校教授 二代 海野美盛」》

《 》のことから水戸から東京に移住した 小泉勝親は明治43年頃には60歳代にて、また人望と

技能、後輩の指導にも力をもち備えた人物であったことがうかがえる。「兄弟子、海野勝a66歳」
                  
槌起・鍛金     ・黒川栄勝=勝太郎 東京高名金工番付表 明治19年[1886] 若干32歳において

 前頭筆頭 安政元(1854〜1917)大正6 の実力を有する

黒川は明治期の、内外博覧会において、作品の出品数の多さと最多の大賞を獲得した人物である。

加納夏雄。 海野勝a。香川勝広など多くの内国博、万国博の彫金象嵌の為の銀打ち出し製品を造る

後継者 黒川義勝

宮内庁関係にも多くの作品が所蔵されています

                                       平田派 平田重光=直系 とは相弟子関係になる

                   

                     偕楽園の石碑(二)

                                      作成日時 : 2007/12/12 01:42  

    画像二名匠碑(明治43) 報徳碑の建つ芝前門前の茶店から、
       御成門へ向かう苑路左手に建てられています。
      美術工芸品として内外から高い評価を受けていた『水戸彫』の

      二名匠、萩谷勝平(1804〜1886)と
      初代海野美盛(〜1862)の顕彰碑です。題額に文字は無く

       帝室技藝員たる海野勝a(1844〜1915)
      の描く龍獅子の浮き彫り(彫刻:飛田雲玉)が目を惹きます。
       菊池謙二郎の撰文、書は北條時雨によるものです。
      建設人には勝a以下、二世海野美盛(東京東京美術學校教授)、

      小泉勝親(日本金工協會・商議員)
      および川上勝俊(日本金工協會・彫金部長)の名が刻まれています。

                              

         

      日本美術院(にほんびじゅついん)日本の美術家の団体。1898年創立。明治31年

        岡倉天心が職場の東京美術学校(東京芸大)を追われる形で辞職した際に、自主的に連座して退職した美術家達をまとめる形で結成された。

        しかし、初期は運営がうまくいかず、岡倉の熱意も冷めて会は数年でほぼ解散状態になる。岡倉がに1913年に没すると、逆に弟子たちが奮起し、

        翌1914年横山大観、下村観山らが第1回再興院展を開き、組織を復活させた。その後、活動がさかんになり、日本を代表する美術団体になった。

          当初は美術全般の団体であったが、彫塑部、洋画部などは廃止され、現在は日本画の団体となっている。

          院展は日本美術院の(展覧会)公募展の名称として現在も使われており、院展と日本美術院はほぼ同義に扱われることが多い。

          初期には日本美術院内部に、国宝の修理などを事業として行う日本美術院第二部があった。しかし、日本美術院の運営がうまくいかなくなり、

          事実上茨城県五浦に移転した際、第二部は国宝などが多く、修理の依頼も多い京都に移転し、

         、美術院という名で分離し、別個に運営を行うことになった。なお、この第二部は財団法人美術院という名称で現存する。

日本美術院創立時の構成員

  正 員
 橋本雅邦 剣持忠四郎 西郷弧月 横山大観 寺崎広業 菱田春草 六角紫水 岡部覚弥 新納古拙(忠之介) 岡崎雪声 下村観山 小堀鞆音 山田敬中 川崎千虎 関保之助 櫻井正次 尾形月耕 前田香雪 新海竹太郎 田辺源助 塩田力蔵 岡倉覚三(天心) 松本楓湖 滑川貞勝 府川一則 黒川栄勝

  役 員
 主  幹 橋本雅邦
 評議員長 岡倉覚三(天心)
 評議員 橋本雅邦 岡崎雪声 剣持忠四郎 六角紫水 寺崎広業 西郷弧月 横山大観 岡部覚弥 菱田春草
 幹  事 剣持忠四郎
 庶務嘱託 益子幹治
 書  記 中島潔 高木源四郎

  実技担任
 絵  画 橋本雅邦 松本楓湖 尾形月耕 寺崎広業 西郷弧月 横山大観 小堀鞆音 菱田春草 山田敬中 下村観山
 彫  刻 新海竹太郎 新納古拙(忠之介) 菅原大三郎 天岡均一 信谷友三
 漆  工 田辺源助 六角紫水 磯矢邦之助
 図  案 前田香雪 川崎千虎 六角紫水 横山大観 関保之助
 金  工 岡崎雪声 滑川貞勝 府川一則 黒川栄勝 岡部覚弥 桜井正次 山本正三郎 桜岡散城(三四郎) 山本茗三郎

  学術担任
 内藤耻叟 高山林太郎(樗牛) 前田香雪 川崎千虎 塩田力蔵 関保之助 岡部覚三(天心)

  名誉賛助会員
 二條基弘(公爵) 高田早苗 近衛篤磨(公爵) カルチス ペルリー 市島謙吉 志賀重昂 富田鉄之助 大倉喜八郎 首藤陸三 黒田長成(侯爵) 谷干城(子爵) 肥塚龍 徳富猪一郎(蘇峰) 小笠原長生(子爵) 久保田譲 浅田徳則 浅香克孝 三崎亀之助 フェノロサ ブリンクリー 川上操六(子爵) ビゲロー チンデン 角田真平 島田三郎 矢野文雄 大沼渉 都筑馨六 鳩山和夫 田口卯吉 服部一三 横山孫一郎 金子堅太郎 大石正己 朝比奈知泉 高橋捨六 千頭清臣 鈴木充美 米国公使 藤田隆三郎
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