東京国立博物館  平成館開催 、世紀の祭典  万国博の美術展

                                    
                             

1900年パリ博写真と登録美術品第二号
巴里大博覧会1900年報告書の展示風景 写真

                       金森宗七 没後の1900年 巴里博覧会に 林忠正 事務局長にて関係者の協力により出品されたことが読みとめる

:                                        初代 金森宗七
文政4年(1821)〜明治25年(1892)
  
           金森宗七製花瓶  明治初期製作の根拠

     74センチ 30キロの大花瓶にて 金森宗七 商店の看板商品であったと想われる。初 2代亡き後 1900年の巴里博覧会 にて

    展示販売したものです。上記の写真が著実に物語っております。明治6年 10年 14年の明治前期の頃の博覧会にては 大型作品が多く制作されておりますが

    中期の 22年の頃にては影を消しデザインや技法の工夫に 重点を置き制作されていたのでしょう。また大作は小作品に比べて

    労力と金銭的に大きな負担となり、又 売り上げの減少とジャポニズムの衰えとに共に粗製濫造の時代に入つた為

      大きな優秀な作品は 若くて元気な世代でないと制作できず また根気も続かず小型化していきました。 この頃 高岡の職工も東京 京都といろいろ職を

     求めて 移籍しております。今日の地場産業にても 粗製濫造の為、衰退しつつあり、お客は目を肥やし そのような 大量生産の模造美術、

     芸術品のような物には、飽きたらず退散しているのが現実です。現在見直しも掛かっておりますが 観る人 触れる人に心のやすらぎと活力 エネルギーを与えてくれる
  
     すがすがしい 今にも動きだしそうで 語りかけてくれる作品を制作されん ことを待ち望んでいます。


2004年12月下旬 NHK日曜美術館の番組にて7月との再放送で2回アップにて取りあげられました 

 【国認定】登録美術品 第二号 東京国立近代美術館 工芸館 寄託中




         高岡市は1900年 市の中心部より発生した大火災にて「3分の2」参千余軒消失 巴里博覧会出展の為 巴里に作品が
           存在したことが幸いして今日に伝わる 後の建築物は土蔵造りが本通りにては主流となる

                   本作品の制作者は不明であるが、海外貿易も力を注いだ有力な高岡銅器製造販売商、
        金森宗七が高岡銅器を世界に発信するために制作を依嘱した作品であり、1900年のパリ万博博覧会に出品された。
        明治前半期に我が国から海外発信された工芸品の中でも、この作品は質が高く、この種の金工品のまさしく代表作といえるものである
        。また、本作品に用いられている文様は、西洋に日本の美の高さを紹介するために考案されたデザインの代表例であり、
        例えば、把手の象の立体彫刻はオリエンタリズム、鳳凰の文様は日本の古典、花鳥(鶴)の図柄は江戸の装飾的絵画を用いている。

                         海外貿易 高岡銅器商 金森宗七 伝へ リンク

登録番号 国認定 登録美術品第2号
美術品の名称 花鳥文様象耳付大花瓶
(かちょうもんよう ぞうみみつきだいかびん)
員数 1口
種類 工芸品
制作者
  氏名 金森宗七(かなもりそうしち)(制作依嘱者)
  生年及び死亡年 文政4年(1821)〜明治25年(1892)
  
           作品製作時期 明治時代(19世紀) 「明治10〜14年頃」明治6年1873〜明治14年1881の頃は
大型作品が多く出品され以降はデザインに重きを置き小型作品が主流をなす。また明治中期以降 首都近郊の金工師は西洋の銀食器文化に同調し銀作品に主流を移しつつあった為青銅作品は需要の減少に見舞われた。
(1) 作品の概要
法量  高74.0  口径42.3 (単位センチメートル)
 黄銅鋳製、頚、胴、三脚と基檀からなる大形の花瓶。頚は太く口縁で外反し、左右に象耳を取り付ける。胴は倒卵形で、頚との境に2条の紐帯を巡らし、紐帯の間に花文を金で布目象嵌する。脚は獣面をもつ獣足3本を出し、2段からなる基檀にのせる。頚は片面に双鳳凰に唐花、もう片面に双龍に唐花、胴は椿樹、百合、秋海棠などの花樹と鶴、小禽を金、銀、赤銅、四分一などの色金で高肉象嵌、布目象嵌などで華やかに表わす。基檀の文様は上面は唐花唐草文を金布目象嵌、銀平象嵌とし、上段縁は雷文を銀の縁象嵌、下段縁は金布目象嵌、銀箔押の花弁帯を巡らす。
 胴底裏に「金森宗七」の線刻銘がある。
(2) 制作者について
 金森宗七は文政4年(1821)、高岡金屋町に銅器商であった金物屋七郎右衛門の次男として生まれた。幼名を巳之吉といい、天保6年(1835)、15歳の時、宗七と改めた。弘化元年(1844)、分家して高岡御馬出町に「金宗」の屋号で店開きし、銅器を扱った。慶応2年(1866)には横浜にも進出して、海外への銅器輸出にも積極的に取り組んでいる。明治5年、自邸の裏に工場を建て、ここに富山藩の装剣金工であった平石親随、民野照親、大田政親、金沢から象嵌師であった村沢国則、駒井元貞らを招き、また高岡の鋳工横山彌左衛門、関沢卯市などに銅器製作を依頼し、斬新な意匠と高度な彫金技術による加飾を行い、高岡銅器の発展、向上に努めた。明治6年には金沢にも工場を作って進出し、とくに加賀象嵌の製造販売を試みたが、数年後には金沢を引き払い高岡だけを拠点とした。
 高岡銅器を広めるため内外の博覧会にも早くから関心をもち、明治10年の第1回、明治14年の第2回内国勧業博覧会はじめ、明治6年のウィーン、明治9年のフィラデルフィア、11年のパリ、18年のニュールンベルグなど各地の万国博覧会に出品している。
 角羽勘左衛門、塩崎利平とともに高岡を代表する銅器商であり、高岡銅器の経済的発展に寄与した功績は高く、またアートディレクターとしてデザイン、技術などの向上にも貢献した。
 また長男嘉七郎が明治14年家督相続して2代目を継ぎ、宗七を名乗ったが、明治26年、初代の没した翌年死去している。
(3) 作品について
 黄銅で器形を鋳造し、ここに各種の色金を使い平象嵌と高肉象嵌を併用して装飾文様を表わす手法をとる高岡銅器の典型作である。とくに象耳、獣脚をもつ大形の器形、隙間なく、器胎全面にほどこされた花鳥の意匠とその技巧的な表現法は明治時代前半の輸出銅器の特徴を顕著に示しているが、そうした輸出銅器のなかでも出来が優れている。明治33年のパリの万国博覧会にも同一の作品が出品されている。
 制作者の項でも記したように金森宗七は直接の作家ではなく、この作品の発注者である。高岡銅器には金森宗七だけではなく、角羽勘左衛門、塩崎利平、林忠正なども制作者としてその名を記した作品があるが、これは発注者として器形、文様のデザインを示して製作されたと解釈すべきであろう。金森宗七制作の作品は極めて少なく、他に、「大日本国高岡金宗製 野村貞吉作」と銘のある枇杷文花瓶が知られるほどであり、それは実際の制作者が具体的に知られる。

 本作品の実際の制作者は、高岡銅器がみな同じような作風を行うため不明であるが、最も古い高岡銅器商金森宗七の発注作品として、資料的価値も高い。明治時代の輸出銅器の一作風を示している。
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