林忠正の偉業

                       林忠正      印象派と浮世絵    ジャポニスムとは    ゴッホのジャポニスム

登録美術品第1号

                             【国登録 登録美術品第一号1999,3,30付   2005,4,1「更新」2010。3.31「再更新」 2015.3.31

                        高岡市文化財 第57号 2001,1,10付    林忠正 監修
                      

                                

                                      

                           林忠正コレクションとパウラ・モーダーゾーン=ベッカー、編集佐藤洋子

       
    菊花文飾壺 林忠正 注文制作考案 横山弥衛門孝純2代北岳堂(屋号)2年3ヶ月を 掛けて製作
 
                     アールヌー
− 様式に見られる柔らかい線で

                                     
 林忠正 高岡偉人伝へリンク

                JAPANEには今までに無い  デザインであり .明治22年作で、金工品としてはこんにちにいたるまで、同作者以外には

               見れない様式である、今後の研究を待ちたい。1対?作品裏銘文にこのような詳細な記述が

                あることは稀であり この記述と作品により 

               林忠正と横山弥左衛門 また林忠正が高岡  白崎善平に巴里から送った高岡銅工に答える書の具現化である

               この作品に2年3ヶ月も懸ける職人魂が作品から読み取れる 但し他に 横山弥左衛門製 [アメリカの美術館に菱形飾壺、1点あり。]

               2004年5月ごろ  東京テレビ ネクサス より なんでも鑑定団 に出場依頼あり 高岡 に調査のため出張
     
                寄託美術館と検討の結果 登録美術品を なんでも鑑定団に公開 価格を提示することには 抵抗があり 断念   

                この飾壺 のような作品は 日本 、世界 の金工史上 2点と無い作品である。 フランスのアール ヌーボ様式に
 
                      多大な影響を与えた作品であり フランスに滞在して時代の先取りをした 林忠正 の考案したデザインと

                       高岡住 横山弥左衛門の技量 あればこそ出来た作品である。

             近年 〔ブリジッド.小山 〕フランス語の著書 2冊にも紹介され 再度のフランス展示も考えられる
        
                                                      エミール ガレ
                                      

                     1846年5月4日、フランス北東部ロレーヌ地方ナンシーで、鏡ガラス工場を経営する事業家、

                    シャルル・ガレの家庭に生まれる。リセでは優秀な 成績をおさめ、特に詩には深い造詣を見せていた。

                     ドイツ、ヴァイマールに留学し、詩、文学、哲学、植物学、鉱物学、建築学、装飾美術をおさめた。
      
                      植物学においては大家となり、今日においても植物学者としての存在は大きな力を残している。

                     また、再度科学を学ぶことによって、その後の  ガラス制作に大きな発展を もたらした。

                     当時の美術界をゆるがしたジャポニズムの先導者、また象徴主義の原動力として、その功績は 画家 

                     ギュスターヴ・モローと並んで、19世紀末フランスの代表的芸術家として、その名をとどめている。

                     高い教養が裏付けとなって、ガラス芸術に投 じた信念と自信ははかり知れないものであった。

                     当時の万博や様々な展示会、知識階級に絶大な力を持っていたサロンでの成功は華々しい ものであった。

                     現在、残された作品の芸術性の高さは、比類なきものと、今日また世界的に再評価されている。

                           1904年9月23日、白血病により、58歳の生涯を閉じた。   

            

                             黄銅製 鋤出彫 「菊花文飾壺」  [PDF]

                       明治期高岡銅器の金属工芸技法解析 その1   高岡市美術館 山本成子

                                        もう1つの菊花文菱形壺  横山弥左衛門 制作

    

                 菊のいろは  管物「くだもの」。一文字菊「御紋章菊」。江戸菊。嵯峨菊。丁字菊。伊勢菊。  厚物「宝珠菊」。

                       仕立て   三本仕立て「天地人、森羅万象を現す、理想の世界」。 千輪咲き。 懸崖作り

             遣隋使、遣唐使により中国より不老長寿の妙薬として伝わる 。菊慈童伝説 菊の葉に溜まった露を飲んだら、

                  若いままで800歳まで生きた。

                  嵯峨天皇 786〜842 平安時代、宴を催す。後鳥羽上皇 1180〜1239 鎌倉時代、 など好む。 室町時代に定着す

                  菊は長寿の願いにて吉祥文様 めでたく、けだかく、はなやかにて 皇室の家紋として定着す。現在1500種にのぼる

                            下記の飾壷は 管物「くだもの」細管,間管.太管。

                  一文字菊「御紋章菊」。江戸菊。嵯峨菊。丁字菊。伊勢菊。 厚
物「宝珠菊」を全面に掘り出し

                 吉祥文様、不老長寿の妙薬としての菊を世界の万国博覧会 花の都 巴里に向け当代1流の金工家に託したのである。

                                           
 
                                    


【国登録】登録美術品第1号裏銘

林忠正(1853〜1906)嘉永6〜明治39高岡市一番町34番地辺りに長崎言定の次男として生まれる

横山弥左衛門孝純(1845〜1903)弘化2〜明治36高岡市三番町70番地に住す

初代横山弥左衛門孝茂の長男として加賀の国に生まれる,林は横山とは美術商と職人という関係で知り合って

1889年(明治22)のパリ大博覧会に自分の想いのデザインにて製作依頼をしたものである

二人の生誕地と工房の地の距離は100m程にて発注以前よりの交際があったものである

横山はこの作品製作前後に東京に住居を長女伴って移る.

林はパリより日本に帰国して横山と密接に打ち合わせをしていると思われる
 
 
  「横山弥左衛門孝純 2代北岳堂」 の父親 「横山弥左衛門孝茂【文化〜明治12年】

       1810頃〜1879 初代北岳堂」高岡市鉄砲町にて没す

 
  墓地 初二代共に川原町、開正寺に在り。大谷石にて 全面に彫り物の施されていた
。 
        鈴木長吉 の父親 鈴木政義 とは 交流あり


                                        Gallery月刊ギャラリー 特集≪登録美術品制度って何?≫ 

                                         出品名  大型 銅 陽成院 駒責 素形 香炉   

                             

                                          

                      

                                         裏銘文

           1889年 巴里大博覧会 出品 林忠正 好 注文 横山弥左衛門孝純造 明治19年10月起業 同22年1月竣工

                         干時 孝純 齢 43年10ヶ月


             巴里万国博覧会第一回〜5回。日本、内国勧業博覧会第一回〜5回。の開催日、入場人数の変遷

        第4回1889年 明治22年5.6〜11.6  。フランス革命100周年を記念して開催。「エッフェル塔」建設。エデイソンの白熱電燈による夜間照明

         入場者数 3235万人。 「1回 1855年、安政2年、入場者数、516万人」「第2回 1867年、慶応3年入場者数、906万人」

          「第3回、1878年、明治11年5.1〜11.10、入場者数、1600万人」「第5回、1900年、明治33年4.15〜11.12、入場者数 5,086万人」
      
         日本国 《内国勧業博覧会。「第1回、1877.明治十年8.21〜11.30.入場者数454,000人。」

            「第2回、1881.明治14年3.1〜6.30.入場者数822,000人」 「第3回、1890.明治23年4.1〜7.31入場者数1,024,000人」

            「第4回、1895年。明治28年4.1〜7.31入場者数1,137,000人」「第5回 1903年。明治36年3.1〜7.31入場者数4,351,000人」

        

             明治期 工芸品にて このような 長文の刻銘のある 作品は稀にて 技術、デザイン、資料的価値など大なり。

             特に 世界の美術商、美術史家、コレクターである《林忠正 制作依頼 デザイン考案》の作品であり 、同郷の名金工家に

              得意の 素彫り にて制作、  色象嵌のような 華やかさは無いけれども アールヌーボ の先駆けを行く名品である。

  本作品は、1889年(明治22年)に開催されたパリ万国博覧会の審査官であった林忠正の注文により、パリ万国博覧会への出品のために

  特別に作成された作品であり、日本美術や日本文化の代表例として、浮世絵などとともに我が国から海外へ紹介された美術品の1つ。

    文様 にも、我が国を象徴する菊がほどこされており、我が国の文化を世界に発信するための工夫が見受けられる

  作者の2代横山彌左衛門は、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会の出品作品を任せられるなど、自らが明治初期から彫金技術の名

 手であるとともに、数多くの職人を擁する「北岳堂」    高岡銅器の技術界の実力者であったのみならず、

    海外でも非常に高い評価を受けたと言われている

                  高岡市伝統工芸士 金工象嵌 鳥田宗吾 論文横山弥左衛門と明治期金工師の技法

                     

登録番号 国認定 登録美術品第1号
美術品の名称 菊花文飾壺(きっかもんかざりつぼ)
員数 1口
種類 工芸品
制作者
  氏名 2代 北岳 横山彌左衛門孝純
(ほくがく よこやまやざえもんたかすみ)
  生年及び死亡年 弘化2年(1845)〜明治36年(1903)
  製作依嘱者 林忠正(はやしただまさ)
  生年及び死亡年 嘉永6年(1853)〜明治39年(1906)
  作品製作時期 明治19年(1886)〜明治22年(1889)
(1) 作品の概要
法量  高23.2  口径16.8  胴径24.0 (単位センチメートル)
 黄銅鋳製、茶色に色上げする。やや膨らみのある円筒形の壺で、さまざまな角度からの多数の菊の花を全面に隙間なく配する菊尽くしの模様を鋤出彫で表す。内部は轆轤仕上げに金色を施した形跡が残る。口部と底はともに円形をなし、底面の毛彫による銘文が作品の意義を語るものとして重要である。保存状態良好。
器底銘文
「千八百八十九年巴里大博覧会
 出品
     林忠正好注文
     横山彌左衛門孝純造
 明治十九年十月起業同二十二年一月
 竣工干時孝純齢四十三年十ヶ月」
(2) 制作者について
 二代横山彌左衛門孝純は金沢の彫金師北岳翁横山彌左衛門孝茂(たかしげ)の長男として金沢に生まれ、維新前後に高岡に移住
して工房(北岳堂)を経営した。
明治政府の万国博覧会への初の公式参加であった明治6年(1873)のウィーン万国博覧会に出品する作品を政府から注文されたことからもわかるように、明治初期から彫金技術の名工として活躍した。
ウィーン万国博覧会をはじめ、明治9年のフィラデルフィア万国博覧会、明治10年第一回内国勧業博覧会、明治14年第二回内国勧業博覧会の各博覧会で受賞するなど評価が高く、当時の日本の金工の名手として広くその名が知られていた。

ウィーン万国博覧会出品の「頼光大江山入図大花瓶」(東京国立博物館所蔵)および第一回内国勧業博覧会出品の「武人文様大香炉」(高岡市美術館蔵)は明治初期の日本の金工品を代表する作品であるが、これらをはじめとする彼の作品は象嵌技術よりも鏨による彫り模様と仕上げに特徴を見出すことができる。

 依嘱者の林忠正は高岡の外科医長崎言定の次男として生まれ、明治3年に富山藩大参事[家老職」の林太仲の養子となる。     明治11年に東京大学を中退して起立工商会社のパリ万国博覧会会場通訳としてパリに渡る。
 1860年代からのジャポニズムが最盛期であり、日本の文化、美術についての知識を渇望していた当時のパリの美術家たちにその   知識を提供し、美術商としても大成功をおさめた。

その後、日本の洋画の発展に尽くし、またヨーロッパの近代絵画を日本で紹介し、西洋美術館の建設運動を展開したり東西の文化の架け橋として大きな功績をあげた。明治23年のパリ万国博覧会の事務官長を務めた後、フランスからは「文化教育功労賞1級」と「レジョン・ドヌール3級勲章」、日本政府からは「勲4等旭日小綬章」を授与された。
(3) 作品について(芸術的価値、技術的価値、来歴等)
     この作品は、明治時代にパリで美術商として、浮世絵をはじめとする日本の美術や文化を欧米に紹介し、ジャポニズムの流行に大き
な役割を果たした林忠正が横山彌左衛門に注文し、明治23年のパリ万国博覧会に出品した作品である。

欧米で活躍していた高岡出身の林に対して、明治19年に高岡の金工家が輸出銅器の不振を抜け出す対策を教示してほしいと要請し、林は「高岡銅工ニ答フル書」と題する文章で返答しており、その中で、従来の日本の古美術を真似した、他人の図案によるデザインから脱出して、世界でも優れた日本の工芸技術を生かしつつ欧米の生活に合う美しさをもつ
新しいスタイルの工芸品を目指すように論じた。

この作品はその思想を具現したものの一つとされ、高岡銅器と林忠正を直接結び付ける貴重な作品であるのみならず、近代日本の金工史上における工芸デザインの発展の上でも重要な意味を持つ。本作品もイギリスのコレクターが所有していたものを昭和55年頃に国内の古美術商が買い戻したものであるが、同じ菊の図柄の配置を工夫して制作した飾壺が、林の期待どおり米国人ウィリアムとヘンリー・ウオルターズ親子によって購入され、現在アメリカのボルチモア市にある THE WALTERS ART GALLERY に所蔵されている。

昭和63年に寺院、市の明治期の書類調査を行う。これらにより
大型銅 陽成院 駒責素形香炉の「大日本二代横山彌左衛門孝純」という銘文は不明な点が多い横山彌左衛門について、生没年や初代との関係などの解明に大きな役割を果たした、また菊花文飾壺作品銘文の裏付けを立証するに寄与し書類の確認を診ることができた。

 技術的には、鋤出彫を全面に丁寧に施し、当時の日本の銅器の中心地高岡にふさわしい作品に仕上げられ更にジャポニズムの世界に日本の美術品として発進しようと試み制作された。。制作者は明治初期の金工家を代表する一人である、作品の銘文に示されるこの時代の工芸品として資料的価値がきわめて高いものであり、世界の美術商、鑑定家、コレクター、デザイナー、企画運営者として活躍した林忠正が関与し制作した十二羽の鷹、作品と共に3件しか現存せぬ非常に貴重な作品である。

             
                
躍動の明治      Copyright 2006 YAMAGEN-JOUZOU co.,ltd. Allrights reserved.   室屋長兵衛ホームページ より転載」

 高岡の銅器問屋は、江戸時代末期すでに海外輸出に眼を向け、横浜を拠点に貿易の途を開いていました。明治初期には、主に銅器問屋たちがアートディレクターとなって図案や品質に改良が加えられて優れた作品を生み出すに至り、その成果は、明治6年(1873)のウイーン、同10年の第一回内国勧業博覧会、明治9年のフィラデルフィア、11年のパリ、18年のニュールンベルグなど各地の万国博覧会で、高岡銅器の製品が博した高い名声となって現れました。その背景には、明治維新を機に職を失った加賀藩お抱えの象嵌職人たちや富山藩お抱えの刀金工職人が、続々と高岡に移住し象嵌や彫金の技術を伝え、高岡銅器の表面を装飾する意匠が格段に緻密で華やかに変化したという事情もありました。

   菊花文飾壺          林忠正 考案注文
パリ万博出品作品
1889年 明治23年
高岡市文化財
2007年
 東京国立近代美術館工芸館  寄託中

 また、この頃の動向として、高岡銅器の前途に的確な助言を与えた美術商林忠正(はやしただまさ)の存在も特筆されるべきです。林忠正は日本の美術工芸品や浮世絵などを海外に輸出し、当時ヨーロッパで巻き起こったジャポニスムの一大ブームの「仕掛け人」として活躍しました。その一方では、印象派の絵画を初めて日本に紹介するなど、国内における西洋美術の普及にも尽力しました。
 パリ在住の林忠正は、明治19年、高岡の銅器職人から、高岡銅器が輸出不振を如何に脱すべきかとの問いを受け取り、これに「高岡銅工二答フル書」と題する長文の手紙を送りました。日本製品が珍しがられ人気を博していた横浜貿易時代はもはや過去のことである、輸出不振は高岡銅器だけの問題ではない、これからの日本の工芸品は、日本の古典的図案の模写から脱却すべきだ。西欧のどのようなところで、どのように使われるのかをよく研究し、西洋人の生活空間を豊かに飾るような新たなスタイルの工芸品を考案することが肝ず、買い手の「用」を考えるべきだと伝えました。
 上の菊花紋飾壺はフランス在住の林忠正が明治19年に高岡の横山弥左衛門孝純に発注した銅器の壷で、林の思想を具現した作品の一つとされています。菊花は古典的な日本のモチーフではありますが、菊花で壺全体を埋め尽くした豪華なデザインには、西洋人の「美と用」が強く意識されています。この壺はイギリスの美術収集家が所有していたものを昭和53年頃に国内の古美術商が買い戻し、現在は個人所蔵にて東京国立近代美術館工芸館に寄託中である。ちなみに、同様の菊花紋様の高岡銅器、横山弥左衛門製花瓶が,当時米国人の富豪家によって購入され,現在はアメリカのボルチモア市にある THE WALTERS ART GALLERY に所蔵されています。林忠正のねらいが見事にヒットした具体例でしょう。
 さかんに行なわれた海外輸出を背景に、高岡の鋳物業界では西洋の工芸品や美術品への関心が高まりました。しかし、銅像への関心は依然として低いままでした。
 いわゆる銅像彫刻はもともと日本にあったものではなく、西洋から輸入されたものです。日本の彫刻美術の歴史において、明治の西洋彫刻の受容は、飛鳥時代に日本人が仏像彫刻を受容して以来の大変革であったとも言えます。日本にはじめて西洋の銅像彫刻を伝えたのはイタリア人の彫刻家クラーザです。彼は、明治9年(1876)に設立された工部美術学校で6年間にわたり教鞭をとりました。クラーザの門弟で同校彫刻科に第1期生として入学した大熊氏広(おおくまうじひろ)は、卒業後さらに彫刻技術を高めるためにヨーロッパ留学し、ローマ美術学校で学びました。そして、帰国後の明治21年(1888)、大熊は九段靖国神社の大村益次郎像を作りました。明治13年(1880)に高岡の鋳物職人たちの手によって鋳造された日本武尊像と大熊の大村益次郎像とを見比べるとその差異は圧倒的です。高岡の銅像づくりは中央から大きく引けをとることになりました。
 高岡の銅像産業の樹立に、もっとも大きな影響を与えたのは、明治27年(1894)桜馬場(さくらばば)に設立された富山県工芸学校です。初代校長の納富介次郎(のうとみかいじろう)は、日本に独創性のある美術工芸品を育てるには工芸・工業教育を行う公的機関が必要と考え、明治20年に金沢、同27年に高岡、同31年に高松、同34年に有田に工芸学校を設立し、地場産業と教育を結ぶ工芸・工業教育に尽力した人物です。納富のような大物校長を得て創立された富山県工芸学校には優秀な教師陣が集まり、彫刻・鋳金・漆芸・デザインに次々と改良が加えられました。高岡が銅像の町として歩み始める出発点はこの富山県工芸学校にあったのです。

     

         浮世絵ぎゃらりぃ ≫    ジャポニスム ≫     林忠正     へ リンクいたします

      

    林忠正   ≪前ページ 1 2 3 4 5 次ページ≫ 

       ジャポニスムを語る上で決して外すことのできない重要な人物がいます。
       パリで画商として活躍し、浮世絵の普及と啓蒙活動に努めた日本人・林忠正です。

  概要

   もともと法律家を志していた林は、東京の学校でフランス語を学んで(当時、法律学と政治学にはフランス語が不可欠だった)
   いましたが、ある時、従兄弟のパリ留学に触発される形で自身も単身パリに渡航します。
   この時、1878年。ちょうど3回目のパリ万博が開催される年で、林は貿易商社の起立工商会社の通訳として雇われ、
   この万博に関わることになります。

   万博終了でいったん失業したものの、数ヵ月後、再び起立工商会社に身を置くことになり、
   既に日本美術の専門家として名を馳せていた副社長の若井兼三郎の元で日本美術の勉強を始めました。
   日本から美術書を取り寄せ、猛烈な勉強をした彼はたちまち頭角を現し、
   若井に並ぶ日本美術のエキスパートとして知られるようになります。

   1882年、若井兼三郎とともに起立工商会社を退職。若井と組んで「若井・林・カンパニー」としてパリ、ロンドン、ニューヨークと
   忙しく飛び回りながら、美術商としての知識を蓄えます。
   1886年、堪能なフランス語を活かしてパリ・イリュストレ紙の日本特集号にフランス語で記事を寄稿。二万五千部の大ベストセラーに。
   その後彼は1905年に日本に帰国するまでパリで二十七年を過ごし、ジャポニスムに沸く現地をリアルタイムで体験しながら、
   エドモン・ド・ゴンクールをはじめ評論家ルイ・ゴンス、画商サミュエル・ビング、そしてモネ、ドガら印象派画家とも幅広く交流し、
   彼らの日本理解の大きな手助けとなりました。

    林忠正の業績/日本美術の啓蒙

   ヨーロッパのジャポニスムブームを支えたのは、日本から大量に運ばれた浮世絵や陶磁器でした。
   その窓口となったのがパリに二軒あった日本美術店で、一つは林忠正の店、
    もうひとつはサミュエル・ビングの店でした。
    ビングの店には、あのゴッホも足しげく通って、ここで浮世絵を勉強したり気に入ったものを購入していたことは有名ですね。
    ジャポニスムブームの中心でもある浮世絵は、この両店を通して市場に出て行きましたので、
     林の店とビングの店はまさにジャポニスムの震源地であったともいえます。

    ビングと林は美術品をそれぞれ日本から独自のルートを持って買い付けていたようです。
   林の場合は、日本に専門の買い取りスタッフを5名置いて、そこで良質な芸術作品とそうでないものを選別し、
   彼が認めた一級の芸術品にだけ、図のような品質保証の印を押して販売していました。

歌川豊国(初代)/文化頃 (当サイト所蔵)

    彼の価値観にそぐわないものは取り扱いませんでしたし、客に対しても、
   その美術品を持つにふさわしい品格を備えることを求めたといいます。
   ライバルのビングの店が開放的で社交的な雰囲気だったのに対し、
   林の店は自身の価値観を理解してくれるお得意様限定の、やや閉鎖的なスタイルでした。

自身も熱烈な好事家であった林は、賞賛に値すると思うものを顧客たちにも自分と同じように愛でてもらいたいと望んでいた。
美しい作品が、それに対してしかるべき敬意を感じることのできない人の手に渡ったり、
それをただ虚栄心の道具にしてしまうスノッブに譲ったりすることを彼はひどく嫌っていた。そこから、
必ずしも金持ちとは限らないわずかな何人かを大事にしたり、それ以外の人たちに隠し立てをしたりするような態度が見られたし、
ヴィクトワール通りの彼の新しいアパルトマンでは客を完全に分断する方法がとられたのである。
そこでは、愛好家同士が鉢合わせすることは絶対になく、その人にふさわしいと彼が判断する品物を個別に見せられたのである。
「Tadamasa Hayashi」レイモン・ケクラン(1906)

    この文章からは店の独特なスタイルとともに、芸術に対して妥協しない林の人柄もうかがい知ることができますね。
   当時は、日本の美術品であればどんなものでも売れた時代でしたが、林は儲けよりも自身のポリシーを優先して、
   海外に出しても恥ずかしくない品質のものだけを扱っていました。
     林自身が日本人だからということもあるのでしょうが、日本美術に対しては常に敬意と誇りを持って接していたようです。

  浮世絵の流出

   彼が日本から持ち出し、海外で販売した浮世絵は、実に数十万点に及ぶといわれ、そのため後年
   「日本の貴重な浮世絵を海外に大量流出させた張本人」として批判を浴びたこともありました。
   当時はまだ価値も知られていなかった浮世絵を安く買いつけ、海外で高値で販売することで巨万の富を築いたことも、
   人々の妬みを買う一因となったのかもしれません。

   しかし、彼のこの行為だけを一面的に取り上げて批判するのはいかがなものでしょう。

   そもそも当時、国内では浮世絵など誰も見向きもしなかったわけで、
   放っておけばゴミ同然に捨てられてしまう運命のものでした。
   林はある意味、このような捨てられる運命にあった浮世絵を全国から買い集めて救ったともいえます。
    もちろんこれらは結局海外に出て行くわけですが、それら廃棄を免れた浮世絵がいまは海外の美術館で
    大切に保管されていることを考えれば、 
    彼の行為を一概に非難することはできません。

   また、海外に流出させた行為それ自体を批判する声もありますが、
   しかし日本に残されたがために悲劇にあった例だってあるわけです。
   たとえば、大正十二年の関東大震災。
   林のよきパートナーであり、アメリカでの日本美術の啓蒙に尽力した小林文七も熱心な浮世絵研究家でしたが、
   彼が長年かけて集めた貴重なコレクションは、たまたま日本にあったがために関東大震災ですべて灰になりました。
   同様に、帝国大学に集められ保管されていた浮世絵関係資料もこのとき灰になりましたし、その他、
   まだ民間に眠ったままになっていた浮世絵類も数多く失われたことでしょう。

   結果論かもしれませんが、林が海外に浮世絵を、それもかなり芸術価値の高いものを優先的に流出させたことで、
   あやうく難を免れることができた貴重な浮世絵だって決して少なくなかったはずです。
   そもそも美術品というのは、国が率先して保護でもしない限り、いったん市場に出てしまえば国境を越え多くの人の手を経て
   最終的にそれを欲する人の元へと渡ってゆくものです。
    当時の状況を考えれば、この時期、浮世絵が海外に流出するのは必然ともいうべき避けられないもので、
   誰にも止められるようなものではありません。林がやらなくても他の誰かがやったでしょう。
   そのことは誰より林自身がいちばんよく理解していたことで、事実、彼はパリ・イリュストレの記事の中でこう述べています。

十五年ほど前から、多くの作品がヨーロッパやアメリカに渡りました。日本ではだんだん希少になりつつあります。
けれども、それでもまだ、大きな芸術的価値を除いても、それらにかかった費用より低価格で売られています。
それはわが国の芸術に関わる愛好者が限られた人数しかいないためです。しかし、
これらの品は遠からずもっと人口に膾炙するものとなり、
後には大きな価値を持つに至るでありましょう。そのころには、皆がそれらを欲しがり、
一級のコレクションを成すものでなくとも、
十倍か二十倍を払うようになるでしょう。というのも、今に日本が粗末に扱ってきた品々を、ヨーロッパから
買い戻そうとすることになりましょうから。
パリ・イリュストレ「日本」(1886年5月)

   国内に日本美術を理解し、保護しようとする人物がいない以上、それら品々がより高く評価してくれる
   ヨーロッパ人の手に渡ってしまうのは、今は止むを得ない。けれども近い将来、
   日本人の中にも自国の美術を再評価する動きが必ず現れるはず。そのとき、再び海外から日本へと
   美術品が買い戻されるだろう、
   と彼はこのように明言しているわけです。
   林忠正が浮世絵を流出させた、と一方的に批判する人は、彼のこの文章をどう受け止めるのでしょう。

   繰り返しになりますが、浮世絵に限らず美術品というものはその時代々々の社会情勢等によって
   国外に流出してしまうことはよくあることです。
   ジャポニスムのように、むしろ流出したことによって日本美術への関心が高まったり、
   国内以上の評価を得るようになったりする例もあるわけで、
   一概に「流出=悪」と決めつけることもできないでしょう。
   林を責めて、「大切な浮世絵が大量に流出してしまった」と嘆く前に、そもそも日本人はその流出を防ぐ努力をしたのか、
   一旦流出した浮世絵を買い戻そうと努力したのか、浮世絵の祖国として誇れるほど国内での評価や研究は進んでいるのか、
   などなど、先に反省すべき点は多々あるのではないかと思います。


                                              次へ

                                            ホームに戻る