文化庁   
        文化財

)                         (京都府)

                国宝         知恩院三門、  元和7年完成 。

                重要文化財     経蔵       元和7年完成      鰐口同年 寄進
         
                        徳川二代将軍 秀忠公 造営   「1619〜1621」

                          
 
建設年代
元和7年(1621年)
所在地
京都府京都市東山区

                      解説
       知恩院は,京都東山の山麓にある浄土宗総本山で,伽藍は勢至堂や御廟の建つ上段,本堂など中心建築の建つ中段,三門や塔頭が建ち並ぶ下段からなる。

       三門は,徳川秀忠が元和5年(1619年)に建立を発意し,元和7年(1621年)に完成し,造営に中井家支配の棟梁があたったことが知られる。

       形式は五間三戸二階二重門で,左右に山廊が付く。構造細部は禅宗様を基調とし二階内部は極彩色を施す。

       江戸時代初期における建築技術が最大に発揮され,高い完成度をもつ遺構のひとつとして位置づけられ, 建築史上極めて高い価値が認められる。

       現存するうち最大の二階二重門で,かつ装飾も荘厳を極め, 我が国の社会に広く影響を及ぼした浄土宗総本山の象徴として,深い文化史的意義を有している。


                              京都三条釜座で制作された京都の名刹 知恩院経蔵の 1621年銘 銅鰐口 

                           江戸時代 銅鰐口 元和七年銘  京都国立博物館寄託 展示中 2006.7.5水〜9.3日

                                         《仏教法会の楽器 》 新館 16号室

            京 都 の 仏 教 楽器 宝 物    17世紀 1621年

       元和7年 徳川二代将軍  徳川秀忠公 寄進

 京都 浄土宗の名刹  知 恩 院  経 蔵  の  鰐 


京都国立博物館 常設展示 16室 展示風景 「 2006.7
 京都の仏教楽器法物」

「再度展示中。京都の鋳物師展 2008.3」 京都三条大橋東詰に釜座、工房在。

橋の欄干 宝冠と共に展示中

       

京都国立博物館 16室 展示風景  2006.7

 洛陽東山大谷寺知恩教院経蔵 元和七 辛酉年十一月二十五日 刻銘 

幅 59.5cm  高さ53.8  厚さ28.5  重量約30〜40キロ、未測定

知恩院誌 に 掲載 875ページ 拓影「陰彫銘」合致



京都国立博物館 16室 展示風景 2006.7




《なんでも鑑定団 》 放送日時:

2005年9月27日放送。  再放送 富山県にて 2006.7.16。

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お宝画像
(2005.9.27)
柿右衛門様式の壺
お宝画像
(2005.9.27)
クールベ作 油彩画
お宝画像
(2005.9.27)
鰐口
お宝画像
(2005.9.27)
戦艦長門の旗3点
お宝画像
(2005.9.27)
杉田玄白の書簡
お宝画像
(2005.9.27)
芥川龍之介の落書き
    
鑑定団メンバー

2005年9月27日放送

鰐口

鑑定依頼人 荒俣勝行さん
エピソード

依頼人が京都の骨董市で。。。。万で買った鰐口。重要文化財である京都の知恩院の鰐口だと思われる

本人評価額

\330,000

   
          
 
評価価格
\ 3.000.000
 
鑑定士総評

依頼品は本物。おそらく戦争で供出されたもの。

                      私見

  非常に貴重な品である、本来 市場に放出されるべき物では無く 重要文化財の経蔵 頭貫に懸けてあるべきであり

   一応 価格は付けられたが 市場に全く出たことが無く、考えられぬことにて、値段の付けようが無い

    1000万円の価格にても安く 知恩院にとっては秀忠公 再建当時の宝物であり 今後いかに保存すべきか 考えさせられる。

   「 おそらく戦争で供出されたもの」との弁もあるが このたび放出された 寺院から推測するに授受が 昭和 前期に

    あったと思われる。明治期の廃物希釈を思い出させる。
  
     知恩院誌 より 掲載 875ページ 拓影合致 これによりこの鰐口は まぎれもなき知恩院経蔵に
    
              懸けられていたことが 証明されました。 元和7年 徳川2代将軍 秀忠公

                   再建当時に奉納された 寺宝でありました。
美術商 曰く 同業者に そんな
      
        知恩院の鰐口があるわけが無い 偽物や、 当地の美術商も 同様にて めくら千人 120%の確定にて、

       販売した美術商 喜び ひとしお、 ただし偽物としての販売価格であったそうです、回顧談。

          狩野派 展覧会展示風景 岡山 池田家伝来  狩野探幽 法眼孔子図の三幅対 掛け軸も

        今日にいたるも 偽物と大口を吐く人が多々あり鑑定団出演以前に2名のみ本物と断定す

               「なんでも 鑑定団 」人気のある所以なり



   経蔵の旧 国宝指定         1900.4.7  明治33年   

   経蔵の重要文化財指定       1950.8.25 昭和25年   

   下記の写真は 1937   昭和12年 刊行の 「知恩院史」の鰐口の懸かっている図版である 今般 再発見されました

 書物の838ページ記載されいるごとく 「洛陽東山 大谷寺 知恩教院 経蔵

元和7辛酉年 11月25日 」 鏨彫りと拓影 不明より 68年ぶりの再発見。
        

京都の名刹 知恩院経蔵       昭和初期の鰐口の懸かった経蔵


                                                                                                     
  平成6年7月〜平成12年3月まで 経蔵の修理保存工事が行われましたが その修理前には

      鰐口は懸っておらず 修理後 「平成12年3月吉日」銘にて再鋳した鰐口が懸けられました  ノーベル賞 湯川秀樹の家系の 湯川愛子氏 の寄贈です


                

                           
   
    
   青銅製 の 鰐口としては 大 の部に属する 所々に鋳物を鋳る為の 鋳型の内外型押さえ 補強鉄筋材 平面4+3箇所に鉄片が残っております

   多くは 内外の型の湯を流す間の補強棒は鋳物と同材の違和感のない

     
    材質にて使用しております。このような鉄筋材がそのまま残されている例は非常に珍しく稀であります

現在は共金にてにて鋳流し判らないようにします。また釣鐘などと違い手が入りませんので前後2面に分けて吹き
 
後 溶接をして安易な制作もなされていることもあります。ロクロ 仕上げが施なされていないのは観かけ上は良ないですが

それなりに仕上げ状態が向上してきた現われにて古い鰐口は仕上げを施したものが多く

年月が古いものは使用に耐えかねて多く破損しています。これは吹きが悪いため仕上げせざるを得ず

研磨する為に肉厚が均等でなく叩く度に薄金と肉の不均等の為 無理が生じます。

 元和7年は 西暦2012年に対して1621年 392年前になります

    徳川家歴代の菩提寺として 関係寺院 7000有余の総本山として2代将軍秀忠公が

     三門 、経堂など造営し鰐口も元和7年11月25日の落慶日 寄進されたと思われます。


                                 


                2005.7.17 

             
   京都 知恩院史より 掲載 875ぺーじ  これによりこの鰐口は まぎれもなき知恩院経蔵に
    
                        懸けられていたことが 証明されました 元和7年 徳川2代将軍 秀忠公

                       再建当時に寄贈された 寺宝であり 今後2度と 流失しないよう しっかりと 保護したいものです


              
                                   京都国立博物館 寄託中 
                
                                

                                  

                           洛陽東山大谷寺知恩教院経蔵 元和七 辛酉年十一月二十五日 刻銘 《1621年 京都釜座にて造 》

                            この日付は何を物語るのか およそこの経蔵の落慶法要の期日では?

                                          現品と拓影 見比べてください 新たな発見です 

               2005年3月 京都骨董市の 土間に放り出され 傷つき討ち捨てられ偽物と評価されていた鰐口が 実は本科にて400年ほど前

                 江戸初期 京都名刹 知恩院経蔵の 仏教楽器宝物だったのです。古い銅器だと想い購入しましたが まさか 信じられないことでした。

                 美術商は閉店時間まぎわにて重いから 頼むから持って行って欲しいと懇願され 購入いたし 後 調査いたしました。
  

                             富山新聞 、2005.4.14  記事         知恩院の鰐口を発見

                                           

                               

              知恩院文化財保存局長 前田昌信さん は「以前の鰐口は、既に無いものと あきらめていた 今も存在していたとは思いもよらなかった」 と

                  鰐口の音色を聴く度に400年程前の秀忠公の時代の息吹が伝わってきます。現在 再鋳造された鰐口が懸けられております。

                    この創建当時の鰐口は 現在 京都国立博物館に寄託中です 。 時代の変遷を感じさせてくれる品です

                             ^−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

                            大型の雲版   奥州三春城主 の菩提寺 1768年 明和5 奉納 

                     横 600mm 高さ 556mm 厚さ 13mm  重さ15`程  両面 鳳凰二羽舞う

                                       このような図案の雲版 稀なり

                 京都鳴り物 金竜子工房に制作依頼をした この雲版ははるばる奥州 三春 天翁山州傳寺に奉納されました。
  
               江戸期 三春初代 松下家城主の菩提寺として格式の高い州傳寺は近年まで 門徒は一部の方々で維持されていました。

                        

                  

               金竜子は京都仏具 音響関係を製作する金工 工房名。「元禄〜弘化〜大正」まで活躍する。   上記は近年の参考銘文

                             天保 嘉永期には 京都三条大橋東詰二丁目に在す 「京都国立博物館調査資料より」

                                                              
                                  近世銘板「参考表示」



                                    
                         

                  金竜子造 京都金工集団  好き音色する                      奥州三春天翁山州傳寺老卯代

                       〒963-7796 福島県田村郡三春町字大町1-2 三春町役場
 
                                          福島県三春町 曹洞宗翁山州

                    賤ケ岳七本槍の一人として知られる加藤嘉明が会津を治めた時代に豊臣秀吉が最初に仕えた松下之綱の孫長綱が三春を拝領し、

                             その父重綱(加藤嘉明の娘婿)の菩提を弔うために建立したものです

住宅地の中の、細い小道に入り緩やかな坂を上ると州伝寺があります。州伝寺は、江戸時代初期の三春城主松下氏の菩提寺で、

本堂の左側には、城主長綱、その父の重綱(二本松城主)、息子の豊綱三代のお墓があります。

本堂の中には丈六様と呼ばれる阿弥陀如来像があります。また、一時地蔵と呼ばれるお地蔵様がまつられていて

夏になると、地蔵盆が開かれます

           
    戦国武将三春城主松下氏
   松下氏は宇多源氏佐々木氏庶流とされ、当初は今川家の家臣飯尾氏に従属して遠江国にあった頭陀寺城を負かされていました。
   之綱の代になると今川家が滅び、徳川家、豊臣家と主君を変え次第に禄も加増され遠江久野1万6千石の大名となりました。
   重綱の代では関ヶ原の戦い、大坂の陣と東軍に組したため、石高も常陸小張1万6千石から下野烏山2万石、二本松5万石と加増されていきました。
   特に重綱の正室が加藤嘉明の娘だった事で加藤家の与力大名として地位を確立していきます。
   重綱が死去した後は長綱が二本松藩を継ぎましたが寛永5年に若輩であるという理由で三春藩3万石に減封され、三春城の改築や城下町の建設など積極的に行いますが
  、寛永21年には乱心、もしくはキリシタンを理由に改易となっています。
   実際は先代から加藤家の与力大名化していた為、加藤家が会津藩40万石から水口藩2万石へ減封、一族が改易となっている中連座的な意味合いが強いと言われています。
   特に加藤家先代の嘉明は賤ヶ岳七本槍の1人に数えられる豊臣恩顧の大名として幕府から敵視され、松下家も豊臣家縁の大名として見られていたようです。
   改易になった長綱は土佐藩に預けられ、二男長光が寄合旗本として松下家の家名は後年まで存続しました。



                           

                                         

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